上宮太子とは聖徳太子(574-622)のことをいう。本図は、太子が16歳の時、父用明天皇の病気に際し、金の香炉を捧げて祈請したという伝記の内容に基づく“孝養像”の形式を、近代的な感覚で表わしたもの。大正3年の東京大正博覧会特設撰画会展に出品されている。靫彦は同じような聖徳太子の孝養像を明治40年代初めにも描いているが、それと比べて本図の太子の顔立ちや衣の色彩、脇に添えられた机の表現などには、明治時代の作例にない華やかさと力強さが認められる。小田原に移って本格的な作画活動を再開した当時、強い絵に憧れたという靫彦の気持ちを反映したものといえようか。また微笑をたたえた太子の表情には、大正元年の「夢殿」の人物にも似た気品が漂っている。尚、髪を美豆良(みずら)に結った太子の頭部は、靫彦が明治41年、奈良留学中に模写した「阿弥陀三尊及童子像」(法華寺蔵)の童子の頭部の写生に基づいていることが指摘されている。
上宮太子とは聖徳太子(574-622)のことをいう。本図は、太子が16歳の時、父用明天皇の病気に際し、金の香炉を捧げて祈請したという伝記の内容に基づく“孝養像”の形式を、近代的な感覚で表わしたもの。大正3年の東京大正博覧会特設撰画会展に出品されている。靫彦は同じような聖徳太子の孝養像を明治40年代初めにも描いているが、それと比べて本図の太子の顔立ちや衣の色彩、脇に添えられた机の表現などには、明治時代の作例にない華やかさと力強さが認められる。小田原に移って本格的な作画活動を再開した当時、強い絵に憧れたという靫彦の気持ちを反映したものといえようか。また微笑をたたえた太子の表情には、大正元年の「夢殿」の人物にも似た気品が漂っている。尚、髪を美豆良(みずら)に結った太子の頭部は、靫彦が明治41年、奈良留学中に模写した「阿弥陀三尊及童子像」(法華寺蔵)の童子の頭部の写生に基づいていることが指摘されている。