慶長3年(1598)3月14日、豊臣秀吉(1537-1598)が京都醍醐寺三宝院で豪華な花見の茶会を催したことに想を得た作品。画面には、護花鈴(鳥から花を守るための鈴)の下、床机に腰をかけ茶碗を手にした秀吉と、舞い散る桜の花びらを盆に受ける侍女が描かれている。近世初期には、屏風の大画面に醍醐寺の諸伽藍を配し、秀吉一行が花見をしながら茶会を催す様を描いた作品も制作されたが、靫彦はこの主題を最小限のモティーフで掛軸に表わした。源義経と同様、秀吉もまた靫彦が好んで取り上げたテーマである。明治38年、第6回紅児会展の「聚楽茶亭」・「白旗の宮」に始まり、明治39年「豊公詣白旗宮」を歴史風俗画会展に出品。40年秋の第1回文展では「豊公」で3等賞を獲得した。また昭和17年頃の「豊太閤」、31年の「伏見茶亭」など、画風の変化を遂げた後年の作例もよく知られる。本図は第1回文展の「豊公」に先立ち、同年の春、紅児会研究会のために描かれた。
慶長3年(1598)3月14日、豊臣秀吉(1537-1598)が京都醍醐寺三宝院で豪華な花見の茶会を催したことに想を得た作品。画面には、護花鈴(鳥から花を守るための鈴)の下、床机に腰をかけ茶碗を手にした秀吉と、舞い散る桜の花びらを盆に受ける侍女が描かれている。近世初期には、屏風の大画面に醍醐寺の諸伽藍を配し、秀吉一行が花見をしながら茶会を催す様を描いた作品も制作されたが、靫彦はこの主題を最小限のモティーフで掛軸に表わした。源義経と同様、秀吉もまた靫彦が好んで取り上げたテーマである。明治38年、第6回紅児会展の「聚楽茶亭」・「白旗の宮」に始まり、明治39年「豊公詣白旗宮」を歴史風俗画会展に出品。40年秋の第1回文展では「豊公」で3等賞を獲得した。また昭和17年頃の「豊太閤」、31年の「伏見茶亭」など、画風の変化を遂げた後年の作例もよく知られる。本図は第1回文展の「豊公」に先立ち、同年の春、紅児会研究会のために描かれた。