第1段 春日の里
第6段 芥川(雷)
第9段 東下り(宇津山)
第10段 東下り(都鳥)
第16段 紀有常
第23段 河内越(筒井筒)
第23段 河内越(高安の女)
第39段 源の至
第58段 長岡の里
第69段 狩の使
第101段 あやしき藤の花
第106段 龍田川
平安前期の歌物語である『伊勢物語』は、古くは10世紀から絵画化され、工芸の意匠にも取り上げられてきた。 本画帖には、『伊勢物語』に取材した12図が収められている。それらの図は、白描・淡彩・濃彩画などさまざまである。各図は物語の順に見開きの左側に配され、右側は金砂子・銀箔・雲母で飾られた詞書の料紙が付されるが、詞書は無い方がよいとの古径の考えから白紙のままとなっている。装丁の表紙は秋草文様の織布、前後の見返しにそれぞれ「柳」と「桜」が金泥で描かれるが、これらは本阿弥光悦書和歌巻の下絵(宗達派による金銀泥絵)を参考にしたもので、同様の料紙装飾を用いた江戸時代の木版本『伊勢物語』(嵯峨本)に倣っている。また、この見返しのモティーフは、大正13年頃に古径が制作した屏風「柳と桜」に生かされている。 画帖の制作時期や内容については、古径の書簡から知ることができる。それによると、沐芳の依頼により、明治44年から大正4年にかけて制作され、12図のなかには明治44年の第15回紅児会展出品作「伊勢物語」9図が含まれること、装丁も古径みずからデザインしたことなどが分かる。古径の美意識が集約された画帖であるといえよう。 12図を現存する伊勢物語図の作例と比較すると、嵯峨本および宗達派の作品(17世紀)に類似する図様が多く、他に「信貴山縁起絵巻」(12世紀)を手本にしたものがあるが、古径独自の図様もあるようだ。 以下、図に沿って物語を述べるとともに、特筆事項をその段に添えることにする。 <第1段 春日の里> 元服した男が奈良春日の里で美しい姉妹を垣間見し、着ていた狩衣の裾を切って歌を送る。 この段は絵画化されることが多く“男が姫を垣間見する”図が一般的であるが、古径は木立を中心に、姫と鹿を点景として俯瞰的に捉える独自の図様を示している。 <第6段 芥川> 男は長年思い続けた女をさらって芥川の辺へ逃げる。夜も更け雷雨がひどいため、男は鬼の棲みかとも知らずに女を蔵に押入れて戸口を守っていたが、その間に女は鬼に食べられてしまう。夜が明けて女がいないことに気づいた男は嘆き悲しむ。 本図は、宗達派作品の図様と白描画をとりいれたものであるが、大正15年頃に制作された「芥川」では、古径独自の画風が確立されている。 <第9段 東下り(宇津山)> 数人の友と京の都から東国へ下る男がいた。駿河国の宇津山に至ると、暗く細い道に蔦や楓が茂り、心細く思っているところに、以前見知った修行者に出会い、男は京の女への手紙をことづける。 <第10段 東下り(都鳥)> 一行は隅田川に至り、渡し船に乗る。水に遊ぶ鳥の名を問うと都鳥だというので、都の女の消息を教えておくれと詠むと、皆が涙した。 <第16段 紀有常> 三代の帝に仕えた紀有常も今は貧しく、妻の出家に際して何も贈ることができない。友にこのことを書き送ると、夜具にいたるまで調えて贈ってくれた。 この段は、代表的な伊勢物語図の中には作例がなく、とりあげられることの珍しい場面である。 <第23段 河内越(筒井筒)> 井戸の周りで遊んでいた幼なじみの男女は成人して恋をし、歌を詠み交わして思いどおり夫婦になった。 <第23段 河内越(高安の女)> 結婚してしばらくすると、男は河内国高安郡に恋人をつくり通うようになったが、妻は恨みもせず夫の身を案じている。いっぽう高安の女は、初めのうちこそ奥ゆかしかったが、今は手ずからご飯を盛るほど油断している。それを見た男は恋が冷め、高安へは通わなくなった。 本図は、「信貴山縁起絵巻」第3巻(尼君の巻)第1段の“とある家を尼君が訪ねる”場面とよく似た図様である。 <第39段 源の至(いたる)> 男は、皇女の葬送の行列を見物するため女の車に同乗して出かけた。好色家で名高い源至も見物に来て、女の気を惹こうと蛍をつかまえて車中に入れる。同乗の男は女に代わって歌を詠むが、至の返歌は平凡なものであった。 古径の作品の中で、明治45年第18回紅児会展に出品された「蛍」は本図とよく似た図様である。 <第58段 長岡の里> 長岡に住む男がいた。隣の宮家に美しい女たちが仕えていたが、男が田を刈ろうとするのを見て風流がり、男の家に大勢で押しかけ「荒れた家だ」などとやかましく言う。男は隠れて「あなた方のお付合いはごめんです」と歌を差し出した。 本図は、「信貴山縁起絵巻」第1巻(山崎長者の巻)の“長者の家の縁先で女たちが立ち騒ぐ”場面とよく似た図様である。 <第69段 狩の使> 男は伊勢国へ狩の使に行き、斎宮と出会う。想いこがれて眠れぬ男のもとへ斎宮が訪れるが、語り尽くさぬうちに帰ってしまい、翌朝斎宮から「夢かうつつか分からないでおります」と歌が届く。男は「今宵はっきりさせましょう」と返歌して狩に出かけるが、その夜は酒宴のため逢うことができない。夜明けに、斎宮から「浅い御縁でした」と杯に書いた上の句が届き、男は「また逢坂の関を越えて参ります」と下の句を杯に書きつけた。 この段は絵画化されることも多く、“斎宮が男を訪ねる”図が一般的であるが、近世の作例の中には“男が杯に歌を書きつける”図もみられる。ここでは“斎宮が杯に歌を書きつける”図様である。 <第101段 あやしき藤の花> 美酒を手に入れた在原行平は、藤原良近を主客に宴を催す。見事な藤の花を宴席に飾り、その花を題に皆で歌を詠み合うが、後から酒宴に加わった行平の弟業平は、藤原氏の栄華を讃える歌を詠んだ。 <第106段 龍田川> 男は、親王たちが逍遥する場所へ伺い、龍田川のほとりで紅葉の景色の素晴らしさを歌に詠んだ。 古径は、本図を画帖の最後を飾る構想で創作したものか、ねぐらに帰るカラスを描いた。
平安前期の歌物語である『伊勢物語』は、古くは10世紀から絵画化され、工芸の意匠にも取り上げられてきた。
本画帖には、『伊勢物語』に取材した12図が収められている。それらの図は、白描・淡彩・濃彩画などさまざまである。各図は物語の順に見開きの左側に配され、右側は金砂子・銀箔・雲母で飾られた詞書の料紙が付されるが、詞書は無い方がよいとの古径の考えから白紙のままとなっている。装丁の表紙は秋草文様の織布、前後の見返しにそれぞれ「柳」と「桜」が金泥で描かれるが、これらは本阿弥光悦書和歌巻の下絵(宗達派による金銀泥絵)を参考にしたもので、同様の料紙装飾を用いた江戸時代の木版本『伊勢物語』(嵯峨本)に倣っている。また、この見返しのモティーフは、大正13年頃に古径が制作した屏風「柳と桜」に生かされている。
画帖の制作時期や内容については、古径の書簡から知ることができる。それによると、沐芳の依頼により、明治44年から大正4年にかけて制作され、12図のなかには明治44年の第15回紅児会展出品作「伊勢物語」9図が含まれること、装丁も古径みずからデザインしたことなどが分かる。古径の美意識が集約された画帖であるといえよう。
12図を現存する伊勢物語図の作例と比較すると、嵯峨本および宗達派の作品(17世紀)に類似する図様が多く、他に「信貴山縁起絵巻」(12世紀)を手本にしたものがあるが、古径独自の図様もあるようだ。
以下、図に沿って物語を述べるとともに、特筆事項をその段に添えることにする。
<第1段 春日の里> 元服した男が奈良春日の里で美しい姉妹を垣間見し、着ていた狩衣の裾を切って歌を送る。
この段は絵画化されることが多く“男が姫を垣間見する”図が一般的であるが、古径は木立を中心に、姫と鹿を点景として俯瞰的に捉える独自の図様を示している。
<第6段 芥川> 男は長年思い続けた女をさらって芥川の辺へ逃げる。夜も更け雷雨がひどいため、男は鬼の棲みかとも知らずに女を蔵に押入れて戸口を守っていたが、その間に女は鬼に食べられてしまう。夜が明けて女がいないことに気づいた男は嘆き悲しむ。
本図は、宗達派作品の図様と白描画をとりいれたものであるが、大正15年頃に制作された「芥川」では、古径独自の画風が確立されている。
<第9段 東下り(宇津山)> 数人の友と京の都から東国へ下る男がいた。駿河国の宇津山に至ると、暗く細い道に蔦や楓が茂り、心細く思っているところに、以前見知った修行者に出会い、男は京の女への手紙をことづける。
<第10段 東下り(都鳥)> 一行は隅田川に至り、渡し船に乗る。水に遊ぶ鳥の名を問うと都鳥だというので、都の女の消息を教えておくれと詠むと、皆が涙した。
<第16段 紀有常> 三代の帝に仕えた紀有常も今は貧しく、妻の出家に際して何も贈ることができない。友にこのことを書き送ると、夜具にいたるまで調えて贈ってくれた。
この段は、代表的な伊勢物語図の中には作例がなく、とりあげられることの珍しい場面である。
<第23段 河内越(筒井筒)> 井戸の周りで遊んでいた幼なじみの男女は成人して恋をし、歌を詠み交わして思いどおり夫婦になった。
<第23段 河内越(高安の女)> 結婚してしばらくすると、男は河内国高安郡に恋人をつくり通うようになったが、妻は恨みもせず夫の身を案じている。いっぽう高安の女は、初めのうちこそ奥ゆかしかったが、今は手ずからご飯を盛るほど油断している。それを見た男は恋が冷め、高安へは通わなくなった。
本図は、「信貴山縁起絵巻」第3巻(尼君の巻)第1段の“とある家を尼君が訪ねる”場面とよく似た図様である。
<第39段 源の至(いたる)> 男は、皇女の葬送の行列を見物するため女の車に同乗して出かけた。好色家で名高い源至も見物に来て、女の気を惹こうと蛍をつかまえて車中に入れる。同乗の男は女に代わって歌を詠むが、至の返歌は平凡なものであった。
古径の作品の中で、明治45年第18回紅児会展に出品された「蛍」は本図とよく似た図様である。
<第58段 長岡の里> 長岡に住む男がいた。隣の宮家に美しい女たちが仕えていたが、男が田を刈ろうとするのを見て風流がり、男の家に大勢で押しかけ「荒れた家だ」などとやかましく言う。男は隠れて「あなた方のお付合いはごめんです」と歌を差し出した。
本図は、「信貴山縁起絵巻」第1巻(山崎長者の巻)の“長者の家の縁先で女たちが立ち騒ぐ”場面とよく似た図様である。
<第69段 狩の使> 男は伊勢国へ狩の使に行き、斎宮と出会う。想いこがれて眠れぬ男のもとへ斎宮が訪れるが、語り尽くさぬうちに帰ってしまい、翌朝斎宮から「夢かうつつか分からないでおります」と歌が届く。男は「今宵はっきりさせましょう」と返歌して狩に出かけるが、その夜は酒宴のため逢うことができない。夜明けに、斎宮から「浅い御縁でした」と杯に書いた上の句が届き、男は「また逢坂の関を越えて参ります」と下の句を杯に書きつけた。
この段は絵画化されることも多く、“斎宮が男を訪ねる”図が一般的であるが、近世の作例の中には“男が杯に歌を書きつける”図もみられる。ここでは“斎宮が杯に歌を書きつける”図様である。
<第101段 あやしき藤の花> 美酒を手に入れた在原行平は、藤原良近を主客に宴を催す。見事な藤の花を宴席に飾り、その花を題に皆で歌を詠み合うが、後から酒宴に加わった行平の弟業平は、藤原氏の栄華を讃える歌を詠んだ。
<第106段 龍田川> 男は、親王たちが逍遥する場所へ伺い、龍田川のほとりで紅葉の景色の素晴らしさを歌に詠んだ。
古径は、本図を画帖の最後を飾る構想で創作したものか、ねぐらに帰るカラスを描いた。