重盛(1138-1179)は平清盛の長子で、性質は温情にして教養と武勇の誉れが高く、仏道に深く帰依していたという。『平家物語』(13世紀)によれば、世の浮沈を歎いて、京都東山の麓に48間の精舎を建て、1間毎に1つ、合わせて48の燈籠を掛け、毎月14・15の両日点灯して念仏会を催したが、その際若く美しい女房を集め、1間毎に6人、計288人を堂内に配して一心に称名を唱えさせたことから燈籠大臣と呼ばれたという。 本図は、『平家物語』に記された念仏会の場面。供養菩薩で荘厳された堂内柱が、燈籠の明かりの中に浮かび上がり、散華の花びらが舞うなかで、白い直衣を着した重盛が静かに座す姿を、淡い色調で幻想的に描き出した温雅で叙情的な作品である。 文献資料には、明治44年3月の第14回紅児会展に古径が出品した作品として「重盛」「伶人」が記載されているが、この展覧会直後の古径の書簡のよると、「伶人」は間に合わず「重盛」「勿来(なこそ)」を出品し、「重盛」は沐芳へのつもりで描いたが、つまらないので見合わせたという。さらに同年9月8日付には「重盛」を沐芳に送ったことが述べられていることから、本図が紅児会展出品作であることがわかる。 古径の制作への厳しい姿勢が窺われるエピソードとして、展覧会出品後もその作品に不満がある限り、得心するまで手を加えたことは知られるところだが、本図もそうした作品のひとつであったようだ。なお、本図録のNo.92前田青邨「燈籠大臣」も同主題をあつかった作品である。
重盛(1138-1179)は平清盛の長子で、性質は温情にして教養と武勇の誉れが高く、仏道に深く帰依していたという。『平家物語』(13世紀)によれば、世の浮沈を歎いて、京都東山の麓に48間の精舎を建て、1間毎に1つ、合わせて48の燈籠を掛け、毎月14・15の両日点灯して念仏会を催したが、その際若く美しい女房を集め、1間毎に6人、計288人を堂内に配して一心に称名を唱えさせたことから燈籠大臣と呼ばれたという。
本図は、『平家物語』に記された念仏会の場面。供養菩薩で荘厳された堂内柱が、燈籠の明かりの中に浮かび上がり、散華の花びらが舞うなかで、白い直衣を着した重盛が静かに座す姿を、淡い色調で幻想的に描き出した温雅で叙情的な作品である。
文献資料には、明治44年3月の第14回紅児会展に古径が出品した作品として「重盛」「伶人」が記載されているが、この展覧会直後の古径の書簡のよると、「伶人」は間に合わず「重盛」「勿来(なこそ)」を出品し、「重盛」は沐芳へのつもりで描いたが、つまらないので見合わせたという。さらに同年9月8日付には「重盛」を沐芳に送ったことが述べられていることから、本図が紅児会展出品作であることがわかる。
古径の制作への厳しい姿勢が窺われるエピソードとして、展覧会出品後もその作品に不満がある限り、得心するまで手を加えたことは知られるところだが、本図もそうした作品のひとつであったようだ。なお、本図録のNo.92前田青邨「燈籠大臣」も同主題をあつかった作品である。