春草は、東京美術学校時代から晩年までに、牧童をテーマとした作品を10数点描いているが、本図は革新的な試みを経た後に到達した、春草晩年の画風をよく伝えた佳品である。秋風にすすきのそよぐ中、家路についた牧童が牛をつれて浅瀬を渡る姿が、やや高い視点から捉えられ、画面上方にはすすきのなびく河原がかなたまで見渡される。没骨描法を主体にしながら、すすきや水の流れ、河原の小石にいたるまで、透明感のある色彩で細やかに描かれている。牛の瞳は澄みわたり、牧童を取り巻く空気には寂寥感さえ漂っているように感じられる。 本図が明治42年春、修善寺で病気療養をしていた安田靫彦の仲介で、沐芳の依頼によって描かれた作品であることは、靫彦が大正6年に記した箱書と、作品とともに伝えられた靫彦あての春草書簡2通によって知ることができる。また靫彦の箱書で、この作品の制作年代が『春草画譜』(精華社 大正6年刊)という画集に、五浦時代の作と紹介されているがそれは誤りで、実際には春草芸術が“幽静閑遠”の境地に達した明治42年の作品であると正している。 「秋郊帰牧」に関する春草書簡 (1)其後御移転被成候由 御病気も経過好良の 御模様にて何よりも結構の 事に存申候尚此上共充分 御摂養の上御全快の一日 も速ならん事祈申候御 約束の拙画小包にて本日 差出し申候間不日到着の上 はよろしく御取計被下度候 潤筆料の義御申越しに 候得共小生に於ては従来 他より依頼の絵の画料は 定め居り不申先年画会 催し候折は二十円目下計画 中のは二十五円と致候得共是 等は勿論発起人なる友人 の便宜上定めたるものにて今 回は単に貴兄を介して御 依頼に相成候事ゆえ小生 に於て何等の考も御座なく 候間御依頼の方□に御仲介 なる貴兄に於て御相談の上 宜敷御取計の程希望 の至に存上候右御了承被下 度先は如斯御座候 匆々不備 四月三日 春草生 安田靱彦様 雅兄 (2)拝啓其後御容体は 如何に候や先日御手許へ 御送付申上置候拙技に 対し相原寛太郎氏より 過分の潤筆料御贈 与被下拝受致候間御承 知被下度御芳志難有存 上候尚同氏へ御面接の折 は宜敷御申被下度候右画 小包にて差出置候処着 の御報も無之候故御病気 にての事とも御案じ申上 候目下好季節とは乍申も 兎角不順の天気にも 候間益々御自愛御療養 被下度願上候 匆々不一 四月十四日 春草生 安田靱彦様 雅兄
春草は、東京美術学校時代から晩年までに、牧童をテーマとした作品を10数点描いているが、本図は革新的な試みを経た後に到達した、春草晩年の画風をよく伝えた佳品である。秋風にすすきのそよぐ中、家路についた牧童が牛をつれて浅瀬を渡る姿が、やや高い視点から捉えられ、画面上方にはすすきのなびく河原がかなたまで見渡される。没骨描法を主体にしながら、すすきや水の流れ、河原の小石にいたるまで、透明感のある色彩で細やかに描かれている。牛の瞳は澄みわたり、牧童を取り巻く空気には寂寥感さえ漂っているように感じられる。
本図が明治42年春、修善寺で病気療養をしていた安田靫彦の仲介で、沐芳の依頼によって描かれた作品であることは、靫彦が大正6年に記した箱書と、作品とともに伝えられた靫彦あての春草書簡2通によって知ることができる。また靫彦の箱書で、この作品の制作年代が『春草画譜』(精華社 大正6年刊)という画集に、五浦時代の作と紹介されているがそれは誤りで、実際には春草芸術が“幽静閑遠”の境地に達した明治42年の作品であると正している。
「秋郊帰牧」に関する春草書簡
(1)其後御移転被成候由
御病気も経過好良の
御模様にて何よりも結構の
事に存申候尚此上共充分
御摂養の上御全快の一日
も速ならん事祈申候御
約束の拙画小包にて本日
差出し申候間不日到着の上
はよろしく御取計被下度候
潤筆料の義御申越しに
候得共小生に於ては従来
他より依頼の絵の画料は
定め居り不申先年画会
催し候折は二十円目下計画
中のは二十五円と致候得共是
等は勿論発起人なる友人
の便宜上定めたるものにて今
回は単に貴兄を介して御
依頼に相成候事ゆえ小生
に於て何等の考も御座なく
候間御依頼の方□に御仲介
なる貴兄に於て御相談の上
宜敷御取計の程希望
の至に存上候右御了承被下
度先は如斯御座候
匆々不備
四月三日 春草生
安田靱彦様
雅兄
(2)拝啓其後御容体は
如何に候や先日御手許へ
御送付申上置候拙技に
対し相原寛太郎氏より
過分の潤筆料御贈
与被下拝受致候間御承
知被下度御芳志難有存
上候尚同氏へ御面接の折
は宜敷御申被下度候右画
小包にて差出置候処着
の御報も無之候故御病気
にての事とも御案じ申上
候目下好季節とは乍申も
兎角不順の天気にも
候間益々御自愛御療養
被下度願上候
匆々不一
四月十四日 春草生
安田靱彦様
雅兄