この屏風の扇面画は、通常の扇面散屏風のように扇面を屏風に貼り付けたものではなく、屏風に直に扇型の絵を描きながら、扇を散らしたように見せたもの。各隻25図ずつ計50図が描かれている。揮毫した画家は総勢17名にのぼり、2つのグループに分けられる。 第1のグループは、安田靫彦・前田青邨・石井林響・広瀬長江・若柳柳湖・西村青帰・浅野未央という紅児会の画家たちで、彼らは右隻25図と左隻5図を描いた。その中には富士山や修禅寺奥の院をはじめ、伊豆・修善寺にゆかりの深い人物・風景・花鳥が多く盛り込まれている。各画家の画風・落款の書体から、制作年代は明治末年頃と判断できるが、これは当時靫彦が沐芳の世話になり、靫彦の仲間たちもしばしば修善寺を訪れていた状況とも合致し、大勢の逗留者がかわるがわる筆を揮った楽しい光景も目に浮かんでくる。 第2のグループは、新井勝利、伊久留朗爾・上垣候鳥・加藤淘綾・鈴木鳥心・瀬戸水明・中庭煖華・藤井白映・真野満・吉川朝衣という、安田靫彦の弟子たちで、残された左隻の20面に四季折々の花や鳥を描いている。制作に携わった真野・上垣両氏によれば、この左隻は、昭和10年代前半に相原家から大磯に住む靫彦のもとに持ち込まれ、靫彦が近隣に住む弟子たちを順次自宅に呼んで描かせたとのことである。 したがってこの屏風は、靫彦の仲間と弟子たち、2世代の画家たちが描き上げた作品ということになる。
この屏風の扇面画は、通常の扇面散屏風のように扇面を屏風に貼り付けたものではなく、屏風に直に扇型の絵を描きながら、扇を散らしたように見せたもの。各隻25図ずつ計50図が描かれている。揮毫した画家は総勢17名にのぼり、2つのグループに分けられる。
第1のグループは、安田靫彦・前田青邨・石井林響・広瀬長江・若柳柳湖・西村青帰・浅野未央という紅児会の画家たちで、彼らは右隻25図と左隻5図を描いた。その中には富士山や修禅寺奥の院をはじめ、伊豆・修善寺にゆかりの深い人物・風景・花鳥が多く盛り込まれている。各画家の画風・落款の書体から、制作年代は明治末年頃と判断できるが、これは当時靫彦が沐芳の世話になり、靫彦の仲間たちもしばしば修善寺を訪れていた状況とも合致し、大勢の逗留者がかわるがわる筆を揮った楽しい光景も目に浮かんでくる。
第2のグループは、新井勝利、伊久留朗爾・上垣候鳥・加藤淘綾・鈴木鳥心・瀬戸水明・中庭煖華・藤井白映・真野満・吉川朝衣という、安田靫彦の弟子たちで、残された左隻の20面に四季折々の花や鳥を描いている。制作に携わった真野・上垣両氏によれば、この左隻は、昭和10年代前半に相原家から大磯に住む靫彦のもとに持ち込まれ、靫彦が近隣に住む弟子たちを順次自宅に呼んで描かせたとのことである。
したがってこの屏風は、靫彦の仲間と弟子たち、2世代の画家たちが描き上げた作品ということになる。