墓に詣でる婦人を描いたこの作品は、御舟が19歳になる大正2年7月4日付で沐芳に送られた。御舟はこの画について、もっと強いもの を描くつもりが、神経の鈍化にかかっているのであのようになったが、次にはもっと興奮したものを描くつもりだ。今非常に真心ということを尊び憧憬しているので自然あんなものを描いたと述べている。 本図に署名された浩然号は、明治45年から大正3年1月に御舟と改号するまでの間用いられた。この時期は、できるだけ描線を排して、淡い色調でまとめた叙情的雰囲気の漂う作品が多く、大観や春草らの朦朧体の影響がみられるが、この作品も同じ傾向にある。婦人が手にした桔梗の花や、背景の蔦などに琳派の装飾性をとりいれているが、とくに卒塔婆と蔦の表現では、俵屋宗達画「四季草花下絵光悦筆書巻」からの借用との指摘がある。すなわち宗達画では蔦の上に文字が書かれるのに対し、本図では卒塔婆を蔦が蔽うイメージで、蔦と文字の関係を逆転させたところに御舟の着想の斬新さがあり、後にしばしば用いられる琳派風表現の先駆となる重要な作品である。また横向きの人物を大きく捉えた構図は御舟作品に多くみられ、特に同じ大正2年制作の「錦木」は、構図・背景の処理・琳派の影響などの点で相似している。本図のモデルは母であるという。
墓に詣でる婦人を描いたこの作品は、御舟が19歳になる大正2年7月4日付で沐芳に送られた。御舟はこの画について、もっと強いもの
を描くつもりが、神経の鈍化にかかっているのであのようになったが、次にはもっと興奮したものを描くつもりだ。今非常に真心ということを尊び憧憬しているので自然あんなものを描いたと述べている。
本図に署名された浩然号は、明治45年から大正3年1月に御舟と改号するまでの間用いられた。この時期は、できるだけ描線を排して、淡い色調でまとめた叙情的雰囲気の漂う作品が多く、大観や春草らの朦朧体の影響がみられるが、この作品も同じ傾向にある。婦人が手にした桔梗の花や、背景の蔦などに琳派の装飾性をとりいれているが、とくに卒塔婆と蔦の表現では、俵屋宗達画「四季草花下絵光悦筆書巻」からの借用との指摘がある。すなわち宗達画では蔦の上に文字が書かれるのに対し、本図では卒塔婆を蔦が蔽うイメージで、蔦と文字の関係を逆転させたところに御舟の着想の斬新さがあり、後にしばしば用いられる琳派風表現の先駆となる重要な作品である。また横向きの人物を大きく捉えた構図は御舟作品に多くみられ、特に同じ大正2年制作の「錦木」は、構図・背景の処理・琳派の影響などの点で相似している。本図のモデルは母であるという。