靫彦は沐芳への謝恩の為、明治末から昭和初期まで年賀としてその年の干支の絵を描き贈っており、本図の他No.55・58・60・61・63・64・66~68がその例として挙げられる。それらの制作年は画中の年紀により判断されるが、厳密には、その前年末に仕上げて沐芳に贈られたものとみられる。絵の内容は、十二支の動物にちなんだ仏教図像や和漢の故事・説話など典拠が広く求められ、表現技法もいろいろな古画の様式に倣いながら、年ごとにさまざまに趣向を凝らして描かれた。本図の麻里支天は、古代インドで民間に信仰されていた女神。密教では、自らは姿を隠して衆生に利益をもたらす天部として説かれているが、通常猪とともに表わされることから、ここでは亥年のモティーフとして選ばれた。
靫彦は沐芳への謝恩の為、明治末から昭和初期まで年賀としてその年の干支の絵を描き贈っており、本図の他No.55・58・60・61・63・64・66~68がその例として挙げられる。それらの制作年は画中の年紀により判断されるが、厳密には、その前年末に仕上げて沐芳に贈られたものとみられる。絵の内容は、十二支の動物にちなんだ仏教図像や和漢の故事・説話など典拠が広く求められ、表現技法もいろいろな古画の様式に倣いながら、年ごとにさまざまに趣向を凝らして描かれた。本図の麻里支天は、古代インドで民間に信仰されていた女神。密教では、自らは姿を隠して衆生に利益をもたらす天部として説かれているが、通常猪とともに表わされることから、ここでは亥年のモティーフとして選ばれた。