靫彦が富士山を描くようになったのは、もっぱら昭和30年代からといわれるが、富士を近くに望むことができた伊豆には、それより早い時期の作例がいくつか伝えられ、No.48・57・59のような明治末から大正時代にかけての小品もある。これに対して本図は昭和5年に描かれたもので、靫彦としては比較的大きな富士の絵で、淡い墨とうっすらと施された胡粉や銀泥により、いかにも新春にふさわしい清らかな山容が表わされている。富士ほど描き手の心象によってその姿を変化させる山はないといわれるが、本図の清新な富士の姿には、確かに靫彦の人と芸術そのものが映し出されている。箱の蓋裏には、靫彦自らの手で、「ふじのねを たかみかしこみ あまくもも いゆきはばかり たなびくものを」という『万葉集』の歌が寄せられている。
靫彦が富士山を描くようになったのは、もっぱら昭和30年代からといわれるが、富士を近くに望むことができた伊豆には、それより早い時期の作例がいくつか伝えられ、No.48・57・59のような明治末から大正時代にかけての小品もある。これに対して本図は昭和5年に描かれたもので、靫彦としては比較的大きな富士の絵で、淡い墨とうっすらと施された胡粉や銀泥により、いかにも新春にふさわしい清らかな山容が表わされている。富士ほど描き手の心象によってその姿を変化させる山はないといわれるが、本図の清新な富士の姿には、確かに靫彦の人と芸術そのものが映し出されている。箱の蓋裏には、靫彦自らの手で、「ふじのねを たかみかしこみ あまくもも いゆきはばかり たなびくものを」という『万葉集』の歌が寄せられている。