大正5年の第3回再興日本美術院展の出品作「頂羽」の画稿である。この作品の主題は、西楚の王頂羽(前232-前202)が、垓下の戦いにおいて漢の劉邦率いる敵軍に囲まれ、いわゆる“四面楚歌”の状況の中で、帳中に別れの宴を催し悲歌を歌った場面を題材としたもの。出品作は鮮やかな賦彩や力強い画面構成、頂羽と愛姫虞美人の心情表現などにより、発表当初から高い評価を得たが、その制作は病のため2年越しで行われた。本図はその端緒となる小画稿で、箱書には制作経緯の一端を明かす画家自身の言葉が寄せられている。それによれば、当初靫彦は大正4年の夏に、沐芳が沼津獅子浜に借りてくれた家で「頂羽」の制作を進めたが、絵の完成を前に病を得たため、出品を翌年に持ち越したという。靫彦は大正6年になって、2年前に沐芳の期待に添えなかったことを追懐しながら、この画稿を沐芳に贈ったのである。
大正5年の第3回再興日本美術院展の出品作「頂羽」の画稿である。この作品の主題は、西楚の王頂羽(前232-前202)が、垓下の戦いにおいて漢の劉邦率いる敵軍に囲まれ、いわゆる“四面楚歌”の状況の中で、帳中に別れの宴を催し悲歌を歌った場面を題材としたもの。出品作は鮮やかな賦彩や力強い画面構成、頂羽と愛姫虞美人の心情表現などにより、発表当初から高い評価を得たが、その制作は病のため2年越しで行われた。本図はその端緒となる小画稿で、箱書には制作経緯の一端を明かす画家自身の言葉が寄せられている。それによれば、当初靫彦は大正4年の夏に、沐芳が沼津獅子浜に借りてくれた家で「頂羽」の制作を進めたが、絵の完成を前に病を得たため、出品を翌年に持ち越したという。靫彦は大正6年になって、2年前に沐芳の期待に添えなかったことを追懐しながら、この画稿を沐芳に贈ったのである。